「終わりなき日常」が終わった世界

学生時代に郊外の研究をしていた。その中で一番記憶に残っている郊外を表す言葉が「終わりなき日常」宮台真司がとある本で書いたものだ。

 

本当は東日本大震災の時に、もう終わっていたのかもしれないし、実はもっと前から終わりなき日常など、なかったのかもしれない。

 

でも、「まだまだ日本は成長できる」だったり「アベノミクス」を信じたように、腐っても平穏が続くと考える方が多数だったのではないだろうか。就職する学生も「大企業に入れば安泰」「公務員なら安泰」そう考えている人がまだ5割以上もいたように記憶している。いい学校に行って、いい大学に入って良い企業に入れば安泰。そのために頑張る。この十数年で安泰に続く道はどんどん細くなっていたとはいえ、まだ残っていた。私は去年終わった平成を表す言葉だと思っている。

 

「終わりなき日常」

 

日本には、何でも揃っているし、安全、でも退屈。そんな意味が込められた言葉だ。

 

今まではそうだった。イオンに行けば全国どこでも、ファッションを手に入れることができ、車に乗れる。正社員になれれば、結婚もできるし、郊外の一軒家に住むことも出来る。退屈かもしれないけど、恵まれた人生。唯一の人に選ばれなくても、望めば平穏な生活が手に入る。

 

何でも揃っていること自体が恵まれたことだと気付くこともなく、何でも揃っていることが当たり前だった時代は終わった。どれだけ堕ちても、生きることはできる。それは平成の存在したひとときの平穏の世界。そんな夢の世界だったんじゃないかとも感じる。

 

 

今の自分に出来ることはとてつもなく小さい。別に偉いわけでも、能力が飛び抜けてるわけでも、未来が読めるわけでもない。まして、増田に政治声明を出しても、それで世界が変わるなんて思っていない。

 

これからの暗い未来は何となく10年以上前から覚悟してきた。生まれは1986年。物心ついたころから、下り坂の世の中しか知らない。下った先に何があるかもわからない。

 

ただ、この先を考えた結論は常にしぶとく生きていくしか無い。いつもその答えになる。

 

絶望も無いし、希望があるわけでもない。ただ、命ある限りは自分が生き残り、家族を生かすこと。可能なら、友人や隣人と共に生き残ること。そして願わくばまた平穏な世界を作る側に立ちたい。

 

災いの渦中にいて、「終わりなき日常がない世界の中でも、目の前の日常を生きていく。」その覚悟を再確認したまでだ。