コギトエルゴスム

「コギトエルゴスム」
有名なデカルトの言葉で「我思う故に我在り」というやつだ。

哲学にはあまり興味もなかったし、そこまで深入りもしてこなかったのだけど、この前こういう本を読んだ。

哲学的な何か、あと科学とか

哲学的な何か、あと科学とか


文中でコギトエルゴスムを引き合いに出して、いろいろと書いてあったが、実はよく覚えていない。
ただ、考えるきっかけになったことは確かだ。

して、ついこないだ、ようやくこの意味を理解できた気がするので、つたない言葉ながら書いてみようと思う。





自分で言うのもなんだが、自分はかなり論理的な人間だと確信している。
三段論法も屁理屈もお手の物だし、論理的に考えることしか考えられないといってもいいほど。

ただ、自分が論理的だからこそ、論理なんてものを馬鹿にしている。


論理というのは、因果関係であり、原因と結果、行為と理由という関係ですべてが成り立っている。

A⇒B ・・・ AだからBである。という関係が論理のすべてだ。

いいかえると  BなのはAだからである。ということが言える。

なぜBなのかという問いに対する答えはAである。

しかしなぜAなのかという問いには、新たにCという答えが考えられる。

ではなぜCなのか・・・

と答えていくと論理は果てしなく続いてしまう。

だいたいこうした問いを続けていると覆せないが証明もできない、前提条件にぶつかる。
それに対する問いが「なぜ人は生きているのだろうか」とか「なぜ地球が存在しているのだろうか」
というところまで考えなくてはならい。自分もこうした考えにとらわれていた。

自分の場合は環境問題に取りくもうと考えていたので、その理由を考えるとどうしても、ここまで行き着いてしまう。

すべての論理は何かしらの前提条件を含んでいて、何かしらの前提条件を暗黙の了解にして成り立っている。
もし前提条件がなければ論理は成り立たたない。


例えば「なぜ、人を殺してはいけないのか?」という問いにも答えることは難しい。
なぜならば、人が死ぬことは良くないことだということを前提にこの社会は成り立っているからとしか答えようがないだ。(これに関してはいくらでも違う答えは探せるし、自分もこう思ってはいない)
この前提条件も崩してしまえば、論理が依拠するところもなくなってしまう。

論理というのは辿っていけば、どうしようもない壁にぶつかり、それを証明することはできない。


行為と理由、結果と原因という論理があったとしても、理由という論理も必ず破綻する運命にあるということだ。
結局、論理はつきつめれば理由にも原因にもなりえないし、世の論理的なものも信用できない。

だからこそ、私は論理なんてものは何の価値も持たないものとして馬鹿にしていた。
(論理的な思考力があれば、この社会ではあるていど役に立つだろうが)
それから、世の中に信用できるものなどないと絶望していた。


でもそこで気がついた。


論理の依拠する前提条件として、一つ覆せないものがあるとしたら、「自分が生きている」ということだ。

ゆえに「我思う故に我あり」と言えるのではないだろうか。(本意とはかなり異なってるはず)

たとえ、自分の周りの世界が虚構やまやかしであったとしても、マトリクスのような仮想空間で生きているとしても、自分が生きているという意識にまやかしはない。

自分が見て、聞いて、感じた思いだけ、いや、今感じている思いだけは真実なんだと。

そう思った。



論理が一人歩きする現代社会では、一人一人の気持ちは蔑まれてしまっている。

でも、論理が成り立つ唯一の土台というのは、自分の感情だったり思いだったり、なによりもまず自分が存在しているということなのだと、私は気付いた。
そして、論理だけで社会を語る人たちにも気付いてほしいと思う。

その中で論理だけで成り立っていないことを、一番気付いてもらいたい対象は「自分」だったりするのだが。



なーんて、自分の中でうだうだ溜まっていることを書い出して、すっきりした〜。