工場と団地から風景を見つめる


工場萌え

工場萌え

という本が最近売れているらしいです。
本の作者は大山顕さんという住宅都市整理公団別棟のブロガーです。


私、この人のファンです。


なぜかって、自分もちょっとした工場萌え・団地萌えの人だから。


団地って、けっこうかっこいいと思わない?


近くで見ると、仰々しいけど、都会を象徴する意味でも絵になると思し、純粋に圧倒的な存在感とスタイリッシュな雰囲気を持っていると思う。ただ、団地の捉え方は人それぞれだろう。


自分は遠くから見るには良いけど、住みたくはない。コレは自分の主観。
団地に対するイメージだと思う。ただし、都市を彩る(表現する)モノの一つとしては重要だし、傍目から見るのは好き。



なぜかというと
自分は街いや、風景?景観を形成する様々な要素に興味があるから。



景観と言うと、歴史的な町並みや、最新のオフィスビルなどの話をイメージするのではないだろうか?
一方で風景と言えば、風光明媚な海岸線や、田園地帯をイメージするでしょう。


でも、今の世の中のほとんどの景観を形成しているのは生活空間


気に留めたことが無ければ、景観とは誰も気付かない、いや、認識しないはず。なぜなら、それらは普遍的過ぎるから。




その日常に一体化している風景をあえて、景観として認識して、評価しているのがこの本ではないだろうか。
世の中はやれ、六本木ヒルズだとかミッドタウン東京だとか、先鋭化した方向に走ってる。彼らはいかに新しいかを、ものめずらしいかを競い合っている。でも、そうしたポストモダンな方向性に対するアンチテーゼとしてのモダンが、反撃に転じたと思えるのが、この工場萌えとかもう一つ紹介する団地本だと思う。

僕たちの大好きな団地―あのころ、団地はピカピカに新しかった! (洋泉社MOOK シリーズStartLine 13)

僕たちの大好きな団地―あのころ、団地はピカピカに新しかった! (洋泉社MOOK シリーズStartLine 13)


大学生の若造が、本も読まずにやれモダンやポストモダンを語るのもおこがましいが、ポストモダン終焉時代に生まれた自分はもう、ひたすら差別化を目指す流れには飽きてしまっている。


オタク論や建築論どちらのポストモダンについても、すでに差別化はキャラクター(個性)の記号化によって行き着く所まで来てしまっていて、個性の幅はすでにほとんどが消費しつくされている。残りは極めてニッチな個性か、既存の記号を反復、再配列し消費するかしかない。自分はその消費の仕方がうまいのがオタクだと勝手に考えているが、それは別の話。


建築に関して言うと、いくら新しいビルが建ってもデザインで言うとどこかで見たようなものか、変すぎてついていけないものしか、もうないのかもしれない。

たとえば、この最新のマンションもどこかで見たことがありそうだし、

このビルはどう見てもTにしか見えないし、どうにもいただけない。



こうした、見る人に媚びた建物が増えるなかで、媚びない建築、つまり機能主義に偏ったモダンな建築に魅力を感じるのだろう。それが工場であり、団地ではないだろうか


ただ、こうした建築に「商業の香りや媚びた感じ、ノスタルジーからの美化」が入ると途端に醜いものになってしまう。

その代表例が
同潤会アパートを再生した表参道ヒルズではないだろうか。

同潤会アパートは確かに写真で見る限りは美しかった。でも、こうなってしまっては何の魅力も感じない。
なぜだろう。月日のみが醸し出せる風景への一体感がそうさせたのか、それとも。




美の基準は常に移ろう。

そして、風景が風景になるには月日を要すると私は考える。
たとえどんなに美しくても、飽きられてすぐになくなれば、それはただのヒトトキの幻想でしかない。
しかしそれがどんなに醜くても、数十年の時を越えて存在すれば、風景となり、美の基準になるのではないだろうか。


だから、私はこんな景観がすきだ。
こんなボロ屋敷でも風景に溶け込んでしまえば、それは美しくもさえある。

そして、たとえ、新しさの波に飲まれつつあっても、時の重みは建物への存在感を与える。


団地ができ初めてそろそろ50年。
圧倒的な存在感を持ちながら、目に入ることもなくなってきた彼らは

風景になれるのだろうか。