8・6という日

どれだけ、日本中で8・6が知られているかはわかりませんが、少なくともヒロシマでは8・6がヒロシマの日だということを思い知らされる日です。

地元の友達と共に、2度目の原爆祈念式典の行われている広島平和公園へ行って来た。


私は別に平和を希求しに行くつもりでもなく、自分はかなり野次馬根性丸出しで行くのです。なぜかって、式典には普通は報道されない有象無象の市民団体や活動家といった人が集まるからです。

別に平和を祈るために行くんじゃないよ。というのは私が天邪鬼なだけですが、自分でも祈念式典という場に行けば、彼らに報いる方法は自らが平和を作るしかないというような気持ちにならざる得ないのです。原爆資料館を含めて、数々の展示や、そこにいる人々を見れば。



当たり前の話だけど、こんな平日に来れる人というのは観光客はともかくとして、式典の中心は被爆者である老人とその遺族、そして彼らが意思を伝えたい多くの子どもたちである。

でも、やはり社会の中心を回しているのは、彼らの狭間の世代にあたる30代〜50代の人々だろう。
社会を回しているからこそ、親の世代が積極的に祈念式典を含めて、過去の思いに浸る場というものに積極的に出てきてほしいなと思う。定年してからでないと自分の言論を積極的に主張できないうのは、不思議だよね。社会と社会が二重構造になっているのだろうか。というのは自分の勝手な見方なのだろうか。


相変わらずの説明不足で論理が飛躍しすぎの駄文を書いてしまった。



平和祈念式典にあわせて、8・6には数々のイベントも行われたりする。

代表的なもので言うと、青年平和フォーラムとか放影研の開放とか。加えて芸術系のイベントもけっこうあって、友達から誘われた所に行きたかったけど、いけずにバイトなんかしてる状況です。


たまたまこの大学に入って、初めて広島に来て、大学にもう4年間。2年前に8・6を知って、今年も行って、ようやく広島という場所に自分が馴染んでいってると思うんだよな。